今日7月15日は、僕の誕生日、と言われていますので、少々独り言など・・・
僕は59年前の今日、板橋区のA病院で父と母に引き取られました。おそらく、本当の誕生日は7月13日ころかなと。
15日は、叔母が従妹の子を産んだ日に合わせて、父が区役所に届け出する際に、便宜上同じに日にしたそうです。
だから長い間、僕はその従妹と同じに日に生まれた奇遇な男、と思って育ちました。
東京では7月15日は新盆、母が僕が11歳のころに交通事故で亡くなって以来、7月15日にはお坊さんを呼んで供養していたことから、僕には特別な日になりました。
父は、僕がもらわれっこ、捨て子であることを墓場まで持っていくことを、当時の母や僕が先々お世話になる保育園の園長先生たち、小豆沢病院の先生たちと話し合い、戒厳令を敷いて、母が僕を産んだことにして、診断書も改ざんして、区役所に届け出をしたそうです。昭和37年のころには、こんなこともできたみたいですね。
この事実を知ったのも、継母が僕に投げつけた言葉からでした。
当時の僕は、お金に荒く、借金もあり、結婚生活にも当時の関西の妻とうまくいかず、人生ぼろぼろの頃。
お金のこと、離婚のこと、たくさん継母には相談していましたが、彼女にすれば、面倒を見るに値にしない「こども」だったのでしょう。
「あんたの出生がかわいそうだったから、お父さんからも言われていたから面倒みてきただけ・・」
それが継母が僕に言った言葉。
父が死ぬまで明かさず、怒りに任せて言った継母。
まあ、今では恨むこともありませんが、この時は女はうそつきが多い、と思ってしまいました・・・
一方で、父は、死んでからも、お通夜の夜に僕の夢にまで出てきて、怒りの顔をしながら、僕を戒めていました。
鳴るはずのない音響設備が、夜中、丑三つ時に突然なりだす、など今にして思えば不可解な現象を、霊感がそこそこある僕には、朝までこの現象につきあい、亡父につきあって、夜を明かしました。
亡母とは血がつながっていないのに、僕の顔立ちは母そっくりになりました。母の母、ばあちゃんが亡くなる間際、父とお見舞いに行ったときに、ばあちゃんは僕を見るなり、「ふみこ、きてくれたんだね・・」と僕を見て言いました。父もびっくりしていましたが、今思えば、血のつながりのない僕を、血のつながりのある娘と間違えるほど、僕は母にそっくりでした。
のちのち、叔母が言いました。
「あんたのことは、お姉ちゃんはとてもかわいく、大事に育てたんだ。だからあとでできたこども(弟)は、あんたの弟として生み、それでもあんたのことは本当の子供のように大事に大事に育てたんだよ」と。
「あんたはもう知っているのかと思っていたよ」
とは母の下の妹の叔母の言葉。
「高校の頃に荒れていたから、てっきり本当のことを知って不良になったのだと思っていた」
いえいえ、おばちゃん、僕は不良じゃなくて、高校にはいかずに、自分で勉強していただ。
しかも、当時有名な暴走族の副総長が僕の高校にいて、授業にも出ず、でも成績だけは上位にいて、ちゃらんぽらんの僕をなぜか評価(?)して、「板橋区と北区のエンペラーのまとめ役だ」と言いふらしていた。
おいおい、俺はバイクの免許、持っていないぞ。
おばちゃんが当時は赤羽でバーをやっていて、お客さんからそんな話を聞いたそうです。
大慌てで僕の家に来て、親父に進言、家に帰ると大説教・・
「だから、俺は免許、持っていないでしょ?」
「・・・、あ、そうか・・・」
バイクの免許もなしに、どうやったら暴走族のまとめ役になれるのだって。
翌日、副総長には直に
「おまえ、いい加減なこと、言いふらすんじゃねえよ!」
と。これは本当に本人に申し渡しました。彼は写真週刊誌に、目を隠されて載るくらいの男でしたけどね。同級生だから怖い、も何もない。ましてや、高校生活で彼も暴走族じゃなくて、高校生だったし。
59年たちましたが、僕の人生はガタガタで過ごしながら、たくさんの人に助けられて、たぶん犯罪も何も侵さずに、今を生きてこられています。
1回目の妻もひどい人でしたが、それもこれも選んだ僕の責任。そう言い切った今の妻と、彼女が不妊治療を乗り越えて、授かることができた息子。
亡父が生きていたら、おそらく、間違いなく、馬鹿かわいがりをしていたに違いない。ましてや、母が生きていたら、今の妻とは気が合ったと思います。
僕の願いは、僕を産んだ人に、なぜ僕を捨てたのか、聞いてみたかった。
叔母は、父と母が僕を引き取る際の条件で。以後一切、連絡をしない、関係のない人、を約束したと覚えていて、それ以上は何も残していなかったそうです。
さらに病院がカルテを、生みの母から、当時母が生んだことにしたため、50年後に僕がA病院に事情を話し、カルテの確認をお願いしたところ、1か月以上もかけて、倉庫に眠っていたカルテを探してくれて、結果、破棄されているようだとの回答を得ました。
僕を産んだ母は当時18歳かそこら。群馬県か長野県から、地元で産めないため、わざわざ東京都の板橋区で僕を産み落とした。でも育てる術もなんもない。一緒に母親(僕にしたらばあちゃんですが)もいたらしいですが、産み落とした子を連れ帰れないそうで、病院に相談していたそうです。
もし、今生きていたら、77歳かそこら。
地元の金持ち男に騙されて、妊娠させられ、堕胎できず。僕が生まれた。
生みの母にすれば、僕はいらない存在。
引き取った父と母は、子供が欲しかったが、5年間、授かれなかった。しかも、昭和37年頃には不妊治療というものもなく、子供も授かれない女は・・・、みたいな風潮もあって、父も母も、何とか子供を授かりたかったらしい。
そこに、行く当てのないこども、僕がいた。
とても、複雑な気持ちなのですが、恨むとか、悔しい、とかではなく、僕が僕であるための事実は、育ててくれた父と母は、まごうことなく、僕の「両親」なんです。
一方で、僕を産んだ「母」という呼称の人に、僕のことをどう思っていたのだろうか、という、独りよがりなんですが、聞けたら、僕はそれで納得のいく人生の一部を手に入れられるんじゃないか、と思っています。
どなたか、昔むかし、東京で子供を産んだけど、捨ててきた、という人を知りませんか・・・
単純に、その人が亡くなる前に逢えたらなあ、と。
そんなことを思った59年目の夜でした!
おやすみなさい。